Photo 絵本(1)

ヤドカリとイソギンチャク
 ここはサンゴ礁の海の中。
 僕は、サンゴの林の中で暮らしているソメンヤドカリというヤドカリなんだ。
 僕の使っている貝殻には、立派なイソギンチャクが沢山付いているのでこれを見て、「もう少し岸から離れると、きれいなサンゴが沢山いて、きれいな魚たちも いっぱいいて、ものすごく大きなイソギンチャクが守ってくれて、竜宮城みたいに楽しい所があるからから君も行かない…?」と、たまに遊びに来るクマノミの子供に何回も誘われたけれど、僕はここが気にいっているからと断り続けているんだ。
     僕の 住んでいる場所のサンゴは、薄汚れた色の死んだサンゴの瓦礫が多く、あまり良い環境とは言えないが食べ物にも住み家にも友達にも恵まれ、十分満足している。
 友達といえば、僕の仲間のヤドカリたちと、それ以上の親友が僕にはいるんだ。
 それは 僕の使っている貝殻の 表面に付いているいくつものイソギンチャクたちだ。 
  殻にこんなものを付けていたら重くて邪魔じゃないの…なんてよく聞かれるけれど、彼らの体は殆どが水分なので、全く問題にならないんだ。でも大きな魚やタコなんかに襲われた時、僕は反射的に貝の殻の中に引っ込んで、ハサミで入口に蓋をするのだけれど、それでも執拗に攻撃されると食べられてしまうんだけど、イソギンチャクが付いていると襲ってきた大きな魚やタコなどは嫌がり、攻撃をやめて立ち去るので、とても頼りになる親友なんだ。  
    でも僕は、イソギンチャクの世話になっているだけではないんだ。 彼らをいつも連れ歩いて、食料が確保しやすくしてあげているつもりなんだけど、イソギンチャクたちが本当に満足しているかどうかはよく分らないんだ。
  何しろ僕は、イソギンチャクの意向に関係なく、僕の気の向くままに食事をしたり、遊んだりして楽しく暮らしているのだから。
  食事のときのエチケットとして、口に入れた食物は、よく噛んで細かくかすると口から吐き出すことにしていることなんだ。
 「なんてお行儀が悪いんだろう…!!」なんて、今誰か言っていなかったかな…?
 とんでもない、これがイソギンチャクに対する僕たちソメンヤドカリの恩返しなんだ。
  僕が噛み砕いて吐き出した食べかすは上方に舞い上がり、携帯用我が家である貝殻の上に着いたイソギンチャクの触手に触れると、吸着されてイソギンチャクの餌となるんだ。
  つまり僕は、外敵に襲われた時イソギンチャクに助けてもらう代わりに、僕が食事のときはその多くを、イソギンチャクに分けてあげるんだ。
 この様に、お互い助け合って生活することを、共生するって言うんだ。
 いくらイソギンチャクに守れれているといっても、僕たちが食料を探しに出かけるのは、安全のため夕方太陽が西の方角に見えなくなり、海底が暗くなり初めてからと決めている。昼間はサンゴの下などに、できるだけ深く潜り込んで休むんだ。 
 今日はとても気持ちの良い日だった。
 食事も十分捕れたし、親友のイソギンチャクたちにもお裾分けできたし、満足してサンゴの下のねぐらに戻って来たんだ。
 サンゴのネグラからふと海面を見上げると、微かに揺れる海面を通して満月が見えたんだ。
 月明りで、海底が今までになく明るく照らされていて、とても気持ちがよかったのでもう一回り、月明りの海底を散歩して来ようと思い立ったんだ。
 潮の流れも丁度治まったので、月見を楽しもうとサンゴの枝の下から出て、開けた場所から満月を見上げたその時です、月の光より何十倍も明るい光が僕の上を通り過ぎて行ったんだ。
 
 びっくりした僕は、反射的に殻の中に引っ込んだんだ。その時我が家の貝殻は、「カタン」といって一瞬動き、その場に固定されるので貝殻が落ちているようにしか見えないはずなんだけれども、その強烈な光は一度通り過ぎたのに、直ぐ戻ってきて確実に僕の上で止まったんだ。
 とても怖かったけれど、しばらくの間何も起こらない。もう少し様子を見て、何も起こらないようなら、近くのサンゴの下に逃げ込もうと考えていた矢先、我が家の貝殻がフワーッと水中に舞い上がったんだ。何が起こったのか分らず、混乱していると今度は今迄経験したことのない世界に突入した。
 貝殻の中の海水が出て行き、捉えようの無い空気という気体が入り込んできた。体がとても重くなり、呼吸がしづらくなってきたけれど、殻の中に残ったわずかな海水を使って呼吸が出来たのは不幸中の幸いだった。 
 どうしたら良いのか全く分からず、慌てふためいていると、今度は殻からブクブクと空気が出て行って海水が戻ってきたんだ。
 安全のため、しばらく殻の中から様子を見ると、周り中が赤く染まっていた。何が何だか分らないけれど、急いで走れば逃げられるだろうと思った。
 少なくても今までの経験ではサンゴの端まで位なら韋駄天走りで逃げ切り、後は殻に引っ込めば殻は転がってサンゴの隙間へ潜り込めたんだから、今回もその作戦を実行しようと考えたんだ。 
 そして思いっきりダッシュしたんだけれど、足が滑り、スピードが出ない状態で赤い壁にぶつかってしまったんだ。仕方ないので、赤い壁に沿って進むことにしたんだけれど、どこまで行っても終わりの無い壁に、うんざりしていると赤い壁がゆらゆらと揺れだした。
 このゆらゆら揺れる感じは、なぜか懐かしさを感じる。僕が生まれた時も、今日のように真丸の月が輝き、僕たちを照らしてくれていた。
 周りを見渡すと同時に生まれた兄弟姉妹たちが、海水の動きに身を任せながらも一生懸命泳いでいたんだけれど、1ミリほどの大きさしかなくプランクトン生活を送ることになるんだ。
 この時の僕の姿はゾエア幼生といって、ヤドカリとは全く違う形をしているんだ。
 この後、波に揺られながら脱皮を何回か繰り返し、グラフコトエ幼生となり、次の脱皮で小さなヤドカリになれるんだけれど、ここまでくる間に同時に生まれた兄弟姉妹の多くは、魚その他の外敵に食べられてしまうんだ。
 
   そうそう…今の揺れは、僕がゾエア幼生のときに波のまにまに漂った時の感触だ…等と思いを
巡らしていると、ガタン!!…と音と振動がして今迄の動きがピタリと止まったんだ。
 僕は何とか,今の状況を打開しようと考えを巡らしているのだけれど、僕の家の貝殻の上のイソインチャクたちはのんびりと触手を広げ楽しんでいるようなのがいたたまれない気持ちがした。
 ふと上を見上げると、奇妙なものが覗き込んでいるのに気が付いた。
 あ…これは人間だ…人間の子供たちが夜中の12時近いのに、僕を見に集まって来ていたんだ。何をされるか分らないので、直ぐに殻に引っ込むことができるよう注意していると、もう遅いからというので子供たちが返され、今度は民宿の人たちが見に来て、こんな珍しいヤドカリを見たのは初めてだ…なんて言って驚いていた。
 また僕の体が赤い壁ごと男に持ち上げられた。この赤い壁は、バケツという入れ物だったんだ。バケツはゆらゆら揺れながら、民宿の部屋に運ばれ固定されると、今度はメガネをかけた男の顔が覗き込んできた。この男が私を捉えた憎き人物だと分かり、怒りが込み上げてきたが特別危害を与えそうもないので安心したものの、これからどうなるものかと不安が募るばかりなのに、背中のイソギンチャクは思う存分触手を伸ばして楽しんでいるようだった。 
 次の朝、諦めきれずにもう一度バケツの中を歩き回ってみたが、同じ所をぐるぐる回るだけで逃げ出す場所を見つけることはできなかったんだ。
 気が付くと、例の男が覗き込んでいたが、朝食を食べに部屋から出て行ったんだ。
 その男がしばらくして戻ってくると、何やら食べ物らしきものを僕の前に置いたんだ。美味しそうな香りがバケツの中に広がったが、僕は食べるのを拒否し、近づくこともしないようにしたんだ。
 すると今度は、殻の上のイソギンチャクにあげ始めたんだ。イソギンチャクたちは、触手の上に落とされた食べ物を口に運び、いくらでも食べていた。
 食事の時間が済むと、男は僕の入った赤いバケツを持って、海岸へと向かった。
 海岸で、新しい海水を入れてくれた。
 更に海岸を歩き、また海水を新しくしてくれた後、男は何やらゴソゴソしていたが、いきなり僕を海に戻してくれたんだ。僕は大喜びでサンゴの下に身を寄せたんだけれど、けっこう丸見えで男の視線が常にこちらを向いていた。

 おまけに黒い箱に付いた目玉と、大きな目玉が水中に入ってきて僕を睨みつけるんだ。ぼくは気味が悪いので移動すると、2つの目玉も位置を変えて睨みつけていたけれど、黒い箱の方からカシャッと微かな音がすると同時に、大きな目玉がピカッと光ったので、驚いた僕はとっさに殻に引っ込んだ。
 でも、大きな目玉はその後何回も光ったので、僕は慣れてしまいいちいち驚かなくなったんだ。
 そして男が油断している時に、逃げてやろうと何回も挑戦したけれど、直ぐ見つかって赤いバケツに戻されてしまうんだ。そうこうしている間に、大きな目玉に異常が発生した。箱の目玉から音が出ないのに、勝手に光りだしたんだ。箱の目玉と大きな目玉をつないでいるコードの皮が破れて海水でショートしたので、今は直せないんだって…。
 
 男は弱り果てた様子で、「撮影は中止だ…うまく写せたら逃がしてやる予定だったが、家まで連れて行かなければだめか…。」…ん…ということは、良い写真が撮れるよう僕がもっと協力していれば、そして2つの目玉が壊れなければ、僕は今日逃がしてもらえたのかァ…。
 しかしその望みが途切れてしまったようだけど、男の家ってどこなんだろう…心配だ。
 僕は新しい海水とともに、バケツに入れられ民宿に連れて行かれた。
  男は宿の主人と話し合っていたが、ヤドカリ輸送作戦をするといって、町に買い物に出かけたんだ。
 数時間して戻ってきた男は、大きな蓋のできるタッパーや、携帯用のエアーポンプを買ってきて、何やら工作を始めた。30分ほどで完成したといって、その中に海水を入れ赤いバケツから僕をつまみ上げ、新しいタッパーに移した。今度は白っぽい壁に戸惑いを感じたんだ。

 そして男は、夕食をとりに食堂に下りていったがしばらくして戻ってくると、「明日は長旅だから
…ご馳走を食べて元気になろう…。」などと言いながら、鮪の刺身を一切れいれたんだけれど、その瞬間タッパー中に異様な感覚が広がり、最大級の身の危険を感じ、反射的に殻に引っ込んだんだ。
 異様な感覚って…そうだ…以前タコに襲われたことがあったんだけど、あの時はタコの足が殻の中まで差し込まれもう少しで引き出される処だったがイソギンチャクに助けられたんだ。
 今もその時と同じ感触が徐々に増大してきたので、僕は貝殻の底まで目一杯後退りするとともに、足やハサミも出来るだけ縮めようと力を入れた時、一番小さな一対の足を残して二対の歩脚と一対のハサミが根元から切り離されてしまったんだ。
 外見上は、鮪の刺身をタッパーに入れたら僕が殻に引っ込んだというだけの出来事だけど、男は咄嗟に重大事件の発生を予感したらしく、直ぐに刺身を取り出し、海水も新しくしてくれたのだけれど、僕は殻から顔を出すことはできなかった。
 しかし何故このような事態になってしまったのだろう。タコはいないのに、僕は何故タコの存在を感じたのだろうか。それも実際に襲われる前に、自切するほどの恐怖を感じたのだろう。
 夕食に出たタコの刺身のエキスが鮪の刺身に付いていたんだろうか…なんて男が呟いた。
 翌朝、網の中に入れられ、タッパーに戻された。
 タッパーの中でゴロゴロ転がらないためだそうだが、イソギンチャクは押さえつけられて迷惑だったようだ。そして午前中は海辺を歩き回り、タッパーの中を常に新鮮な海水にしてくれていた。
 昼近くになると、エアーポンプのホースと一緒に僕は海水の入ったビニール袋に入れられた。袋の口を輪ゴムで縛ると、ビニール袋ごとタッパーに入れられ、隙間にタオルを押し込んで蓋を閉めた。更にタッパーをタオルと一緒にビニール袋に入れ、エアーポンプのホースを通して輪ゴムで縛り、最後に四角いエアーポンプ
をつないでスイッチを入れると、不快な音がして細かな泡が僕の目の前に噴き出してきた。
 僕は相変わらず殻の中で動けないでいたんだけれど、隙間から確認することができた。
 男はこれで良し…といってタクシーで空港に向かった。空港で僕は検疫というのを受け、男と一緒に条件付きで乗せてくれることになった。
 その条件とは、機内ではエアーポンプを作動させないこと…であった。そして飛行機は無事離陸したんだけれど、僕は押し付けられたり、体が膨らむような感じを受けたりして、大変な思いをしたんだ。でも僕は殻の中で全く動かないでいた…いや、動けなかったのかもしれない。
 そして飛行機は、無事空港に着陸しゲートを出ると、男の奥さんが車で迎えに来ていた。エアーポンプは直ぐ動かしれくれたけれど、しばらくすると電池切れで止まってしまった。車は更に1時間ほど走りやっと彼の家に着いた。僕はそろそろ息苦しさを感じるようになってきたんだ。
 男の家には水槽があり、澄んだ海水が満たされていてろ過装置が働いていた。男が留守の間に、奥さんが僕のために準備しておいてくれたんだ。
 車が止まると、男は真っ先に僕をその水槽に移したんだけれど、その時僕の体から切り離した二対の歩脚と、一対のハサミが水槽の底に落ちたんだ。その時男が、ものすごく落胆したのを感じたんだが、のんき者のイソギンチャクは体を膨らませ、触手も目一杯広げてくつろいでいた。僕は酸素を豊富に含んだ水槽の海水を吸い込み、そして思いっきり吐き出したんだ。
 その時の水流が男の目に留まったらしく、男は安堵した様子で部屋から出て行った。
  部屋の中は静まり返り、ろ過装置と循環する海水の音だけとなり、真っ暗となった。僕は唯一残った一対のものすごく小さな足を使い、恐るおそる殻の口まで移動し、水槽の様子をうかがった。
 どうやら僕とイソギンチャクだけで、危険はないようなので、体を半分乗り出してみたんだ。  そして顎を使って移動してみたんだ。ゆっくりだけど移動できたので嬉しかった。
 その時、ドアが開けられ隣の部屋から薄明りが漏れてきた。そして足音と共に男が入ってきて、部屋の明りを点けた。その明るさの変化に驚いて、僕は殻の中に素早く引っ込んだんだ。
 
 男は水槽を覗き込んで呟いた。イソギンチャクがきれいに開いてすごい…でも…貝殻の位置が、違うような気がする…と。
 僕は、無造作に水槽の中に入れられたと思っていたけれど、男は僕が殻から顔を出した時、撮影しやすい場所と角度を考えてセッティングしていたので、少し動いただけで分かってしまったんだ。
 そのため僕は、またさっきの場所にさっきの角度で置かれてしまったんだ。
 定位置で落ち着くと、イソギンチャクたちの触手が大きく開いたところで、水面に白いものが落とされた。水槽全体に美味しそうな香りが広がり、僕の目の前に「しらす干し」というイワシの子供が落ちてきた。
 すぐに飛び出して食べたかったけれど、我慢していると、後からあとから落ちてきたしらす干しが、イソギンチャクたちの触手に捕まり食べらられていた。
 大分時間が経過したので、そっと殻から顔を出したら男の顔が目の前にあり、驚いたんだけれど、僕は夢中でシラス干しにかぶりついたんだ。
 僕たちの口は、いくつもの足の変形したもので出来ていて、ハサミが無くても餌を口の前で持てるようになっているんだ。更に足の変形し
た歯で、噛み切ってシラス干しを食べたんだけれど、その殆どを吐き出してイソギンチャクに上げたんだ。
  さっき男が沢山のシラス干しをイソギンチャクにあげていたのなんか全く関係ないんだ。
 ハサミと足を無くしたヤドカリって…まるでカタツムリだね…といって男は笑っていたけれど、一週間ほどすると、ハサミと足を切り離した痕が膨らんできて、小さなハサミと足が折りたたまれて出来ているのが確認できたんだ。
 僕はそろそろ、脱皮が近づいているのを予感していたんだ。

    
   数日経過した夜明け前、僕は脱皮をしたんだ。あんなに小さくて団子のように飛び出していた足とハサミの跡が、脱皮をすることにより普通の足とハサミとして再生され、僕はイソギンチャクを付けたカタツムリから、ソメンヤドカリに変身したんだ。
 外敵もいないし、食料もふんだんに男が供給してくれたので、安心して脱皮ができたんだ。
 それにしても手足…いや、足とハサミが有るとこんなに自由に動き回れるなんて、夢のような出来事だったんだ。
 僕が有頂天になって水槽の中を這い回っていると、男が入ってきて脱皮殻と這い回る僕を見て、とても喜んでくれた。
 更に 数十日が経過した。
 再生した足もハサミも調子よく、水槽の中をもう何十回も探検したんだ。 水槽はちっぽけな上に、殺風景で故郷のサンゴ礁が懐かしく思い出される。
  親友のイソギンチャク以外、友達もいないのが寂しく思うようになったんだ。
 そんな時、男が貝殻を水槽に入れたんだ。
 貝殻は入口から、空気を吐き出しながら落ちてきた。 僕はしばらく様子を見ていたんだけれど、思い切って貝殻にしがみ付き、表面を観察し殻の中を調べるために、入口からハサミを差し込み頭から潜り込んで視ると、砂も入っていないしとてもきれいなうえ、大きさも今の貝殻より一回り大きく、住み心地が
良さそうだった。 自然界では、こんなに素晴らしい貝殻に巡り合うことは殆ど無いので、僕はこの貝殻に引っ越そうと思ったんだ。
                                  新しい殻をつかみ、古い殻を出て一気に引越す
 新しい貝殻の入口をしっかりつかみ、体をモゾモゾ動かして、体をできるだけ入口の近くへ集中させたんだ。

 「 いち・に・さん…!」…

 僕は今迄入っていた殻から飛び出し、お腹の先から新しい殻に入り込み、すかさず体全体を殻の奥まで引っ込めて見た。
 とても快適に感じたので、僕はこの殻に引っ越すことに決めたんだ。
 僕たちソメンヤドカリの引っ越しは、これで終わりではないんだ。
 古い殻に着いていた親友のイソギンチャクたちを、新しい殻に移してあげなければいけないんだ。これが大変な作業なんだけれど、僕のハサミでイソギンチャクを剝すと、簡単に剝れてくれるのでいやな作業とは思っていないんだ。
 でも、人間がいくら頑張っても真似のできない裏技だから、誰にも教えないんだ。
 剝したイソギンチャクを、新し殻に付けるのは簡単で、イソギンチャクの上下左右お構いなしに、新しい殻に乗せるだけでいいんだ。イソギンチャクの吸盤のような足か触手が、新しい殻
引越しの後は、イソギンチャクを新しい殻に移す作業が必要
に触ればイソギンチャクは自分で吸付き、自分の好きな場所に移動してくれるんだ。
 最後の一つが残ったけれど、もうイソギンチャクの取り付く場所は殆ど無くなっているけれど、僕はそんな事お構いなしに最後の一つを抱え込み、お腹に取り付けたんだ。
 これで僕の引っ越しはすべて完了したんだ。でも、イソギンチャクの引っ越しはもう少し残っている。
 腹部に取り付けたイソギンチャクは、背中をぐるりと回り殻のてっぺんに移動した。これで完全に引越しが完了したんだ。
        
最後のイソギンチャクを腹側に付けると、イソギンチャクは自力で移動して空いたところにたどり着き、全ての引っ越しが終わる。

 それから十数日して、僕は水槽の砂を掘っていたんだ。脱皮の準備をしているんだ。
 前回の脱皮は、ハサミも足も無かったので、とても厳しい状態で穴を掘ることも出来なかったけれど、今回は全て順調で夜中の暗闇の中で脱皮を済ませたんだ。
 僕は脱皮殻を穴に置き、砂を被せて知らんぷりをしていたんだけれど翌朝、男が直ぐ見つけてしまった。
 上からは見えなかったけれど、水槽の横から丸見えだったんだ。そして男に掘り起こされ、今回も取り出されてしまったんだ。
 
掘出された脱皮殻

 時々シラス干しを僕にくれていた小学生の娘さんが、友達に電話で「明日、遊びにおいでよ…」と、言っていた。
 当日、玄関のチャイムが鳴って友達がやってくると、二人は仲良く並んで水槽の前に座った。
 しばらくすると、大きな貝殻がブクブクと大きな泡を出しながら僕の真上に落ちてきたんだ。
 僕は両方のハサミをいっぱいに広げて、その殻を受け止めたんだ。そして僕が殻の状態を調べようとした時、殻の中に残っていた最後の空気が、大きな泡となって出て行った。僕は夢中で落ちてきた殻の縁をつかむと、一気に引越しをしたんだ。
 その時…「すごい !…あんな風にして引っ越すんだ…」という声がした。
 皆に見られていることを思いだしたけれど、今はそんなことにかまっている時ではないんだ。古い殻に付いているイソギンチャクを剝し、新しい殻に移し変えなければいけないからだ。
 僕は古い殻から剝したイソギンチャクを、次々に無造作に新しい殻に乗せればいい…。
 楽なもんだ…でも、イソギンチャクを付けていない僕…つまり、ソメンヤドカリは考えられないし、ベニヒモイソギンチャクたちも、僕たちソメンヤドカリを頼りにしているんだ…なんて感傷的になってみたが、そんな僕の思いに関係なく、娘さんと友達は僕の引越しを見終わると、楽しそうに笑いながら部屋を出て行った。
    

 それから何週間も過ぎて、イソギンチャク達は元気いっぱいなんだけど、僕の調子が変なんだ。
 僕はある日、どうしようもなくなって殻から抜け出したんだ…故郷の海だったらたちまち食べられてしまうのだけれど…僕は力が抜けて行き、意識がもうろうとして全く動くことが出来なくなっていた。
 僕は…僕の魂は、水槽に横たわる僕の体から抜け出し、故郷の海に帰ることにしたんだ。
 
 「ヤドカリが死んでる…!」…翌朝水槽の前で男が叫んだ。
 僕の死骸は、庭の片隅に埋められた。
 
 あとに残されたイソギンチャクたちは、しばらく元気でいたけれど、数日すると触手を縮め、徐々に小さくなって溶けてなくなり、貝殻が一つ水槽の中に残されたんだ。
 イソギンチャクたちも、僕の後を追って故郷に戻ってくるのだろうか。
  
 
   故郷の海だったら、残されたイソギンチャクたちは、他のヤドカリに利用されまだまだ長生きできたのに、水槽ではいつも一緒に行動していた親友のヤドカリがいなくなると、イソギンチャクも生きて行けなくなるなんて…
 ヤドカリとイソギンチャクの関係を実感し、男は水槽に残された貝殻を寂しく眺めていた。

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